子育ての秘訣

この人に聞く 連載第三回

人生の先輩の考える子育てとは

相田みつを美術館 館長 相田一人氏
相田みつを美術館 館長 相田一人氏

うつくしいものを 美しいと思える あなたの心がうつくしい

これが父の教育の基本方針だったと今になって思えます。この言葉に父は深い思いを込めて使っていました。美しいものを見て素直に「いいなあ、美しいなあ」と感動できる心、美しいものを美しいと思える心が美しいのだと、よく言っていました。

相田みつを「うつくしいものを 美しいと思える あなたの心がうつくしい

美しいものに素直に感動できる心と言うのは、反対に言うと美しくないもの、戦争ですとか犯罪やいじめなどを見て、「これはいけない、これは間違っている」とパッとわかる心のことだと言っていたんですね。

それで、「親が子どもが小さいうちにやっておかなくてはいけないことは、沢山あるけれども、その中でも自分が特に大事だと思うのは、子どもが小さいうちに、美しいものに素直に感動できる心を養っておいてあげることが、親の大事な務めなんじゃないか」と父はよく言っていました。

さらに言っていたのは、どうしたらこのような心が子どもの中に芽生えるかということですけれども、父の答えは明確で、「まず親が感動しないとダメ」と言っていました。

親が、例えば風景でも絵でも音楽でもなんでもいいわけですけれども、美しいものを見たときに、心の底から「いいなあ」と感動しますね。するとその感動というのは必ず子どもの心の中に伝わっていって、子どもの心の中に美しいものを見て美しいと思える心が芽生えるというのが父の持論でした。

今思うと、父はそのことを実践していました。父は朝から晩まで仕事をしているタイプで、タバコもお酒もたしなまなかったですから、気分転換と言えば魚釣りでした。私が小さかった頃は渡良瀬川のそばにいましたので、父に連れられて魚釣りに行きました。

夕方に出かけることが多いものですから、魚釣りをしている間に日がとっぷりと暮れて夕焼けになってきます。その夕焼けの中を帰るわけですけれども、川原の土手を私の手をつないで歩きます。夕焼けを指差して「一人(かずひと)、なんてきれいな夕焼けなんだろう」と言うわけなのですが、それがつないだ手から父が本当に感動して言っているのか、口先だけで言っているのか分かるのです。

今考えると、そうして子どもの私に美しいものを見て美しいと思える心を伝えたかったのだろうと思います。この言葉は父の教育の原点だったと思います。
繰り返しになりますが、「美しいものを見て美しいと思える心」というのは、戦争ですとか犯罪やいじめなどが間違っているとパッとわかる心なんですけれども、今の時代はなかなかそれが分からなくなってしまっていますね。

だからこの言葉は今の時代を考えると、父の残した言葉の中でも大事な言葉なのではないかと勝手に考えています。

ともかく具体的にうごいてごらん 具体的にうごけば 具体的な答えがでるから

相田みつを「ともかく具体的に動いてごらん 具体的に動けば具体的な答えが出るから

もう一つは父のユニークなPTA活動についてお話したいと思います。私が昭和30年に生まれて小学校に入った頃は、世の中が高度成長に向けて動き出す頃でした。ですから栃木県の足利市という田舎町でしたが、だんだん世の中の変動と共に、地域社会の濃密な人間関係が希薄になりかかっている時期でした。

それまでは私が物心ついた頃まで世の中はおしなべてみんな貧しかったのです。それが小学校に入って高度成長が始まる頃にはだんだん格差ができてきて、世の中全体が豊かにはなってきたのですが、ちょっと不思議な時代に入ってきました。

そういう中で私が小学校に入って、意外かもしれませんが父は非常に熱心にPTA活動に取り組んだのでした。私が小学校の5年6年の時に父は2年間PTAの会長をつとめました。

当時の地方都市のPTA会長というものは自営業の方、会社を経営していたり市会議員をやっていたりとかある程度社会的ポジションのある方がなっていました。父の場合は地位もなければ社会的な肩書きもなかったのに、人望はあったみたいで推されてPTAの会長になりました。

余談になりますが、子どもの目から見て自分の父親がPTAの会長としてしょっちゅう学校に来ることは嫌なんです。目立つわけですから。先生たちもPTAの会長の息子だという目で見たりするわけです。それが嫌だったので、中学入学した時父に「PTA活動だけはやめてくれ」と言いましたら「わかった」ということで3年間自粛しました。ところが高校へ入ったらまた2年間ぐらい会長をやりました。

いまだに良く覚えていますが、父はPTAの会長となる少し前に私に「一人、おまえPTAってどういう意味だか知っているか?」と聞いてきたのです。小学生なので英語なんてわからなかったのです。そこで父はおもむろに「Pはペアレンツ、Tはティーチャーで、Aはアソシエイションなんだ。親と先生が協調して子どもを育てていくというのがPTAの本来の趣旨なんだ」と4年生ぐらいの私に言うのです。訳がわからないけれども、そうかなと聞いていました。

いまのPTA活動は本来の言葉の意味から外れちゃっているというようなことを父は言うのです。なぜそんなことを言うのかと思っていたら、しばらくして5年生の始業式の日に、いきなり「新しいPTA会長の相田みつをさんどうぞ」と紹介されて、「ああこういうことだったのか」と思いました。

父は本来のPTAの原点に戻った活動をしようということで、会長を引き受けたらしいのです。当時昭和30年代後半から40年ぐらいのPTAというのは、地方都市だったからかもしれませんが、学校に対する圧力団体的なところがありました。先生方もPTAの意向を気にします。それはおかしいと父は言います。アソシエイションだからお互いに協調しなくてはいけないのに、親は先生に気を使いつつ圧力をかけて、先生方もそれを知りつつ適当にやっているみたいなところがありました。それが嫌だったのでしょう。

それで父はこう言いました。「まず親たちが勉強しようじゃないか」と。それでお名前は忘れましたが東京の大学の先生を中心に、通常では呼べないような方々をお招きして熱心に講演会活動をやりました。

どうやって講師を呼んだかというと次のようにです。例えばある大学の先生の本を読んで感動したとします。すると父はその先生に手紙を書くわけです。「先生の本を読んで感動しました」これではだめで、具体的に何ページのどういう内容について感動したかと書くのだと。実際にそうやって手紙を書き、「この話をぜひ父母や先生たちに聞かせていただきたい。ただし田舎の学校のPTAなので予算はありません」と一種の口説きかたでしょうか、普通なら来てくださらないような先生がずいぶんと見えられました。

父の言葉に「ともかく具体的に動いてごらん 具体的に動けば 具体的な答が出るから」があります。それを実践したようなところがありました。ほんとうに細かくつぼを押さえた手紙を書くわけです。そこで著者の先生方も心を動かされて、行ってあげようかということになったようです。

そういう活動をする前に、PTAの役員をやっていた時期がありました。そのときにお母さん方から「うちの子どもは本を読まない」「うちの子どもは勉強しない」だからどうしたらよいかという悩みの相談を持ちかけられました。

そのときの父の答えも非常に明快で「子どもは親の言うことはきかないけれども、親のやることは真似をする」ということでした。子どもさんが勉強しない、本を読まないということは「お母さん、あなたが本を読んでいなくて、勉強しないから子ども達もそうなんだ」と言うわけです。「親が勉強しないとダメだ」とよく言っていたようです。

子どもは親のことを非常によく見ているので、「勉強しろ、勉強しろ」と言っても口先ばかりで、親が勉強していないのはわかるわけです。親が一生懸命勉強していれば、その姿を見て子どもは自然と勉強するようになるというのが父の持論だったんじゃないかと思います。それで親たちも先生たちも勉強しようじゃないかということで講演会をするようになりました。

講師が呼べないときには父が自分で話をすることもありました。それが今残っている父が書いたもののベースとなっています。田舎の小学校の父母に自分の思いを色々ぶつけていたのが30代の父でした。そこで父の言葉や作品を鍛えた部分があるのではないかと思います。

ずいぶん進んだPTA活動を行ったものだと思います。昔よくあったPTAの旅行、親睦会のようなもので温泉などへ行って飲んで騒いでというのがありました。でもそんなのはやめようということで、講演に来られない先生のところへ、こちらからバスで出かけていって直接話を聞きに行ったのです。先方もその熱意に感激して一生懸命話をしてくれたそうです。

親が勉強するための組織がPTAだというのを、父は徹底的に実践しました。今と昔はだいぶ違いますが、当時としてはかなり斬新なPTA活動をしたと思います。

それから「縁(えにし)」という名前のPTA広報誌を作りました。そこに色々なものを会長として書きました。それが後年の相田みつをの作品につながってくるのです。一手に編集からなにからやってまとめていましたが、そういうことが好きでもあったのでしょうね。

物事は必ず両面から見ないと分からない

もう一つ記憶に残っていることがあります。これは先日ある県の教育雑誌に書いたことですが、父は「物事は必ず両面から見ないと分からない」と言っていました。それを私に伝えたかったのだと思います。

こんな思い出があります。私の子ども時代には横山光輝さんの「伊賀の影丸」という漫画がヒットしました。忍者漫画です。発売日を待ちかねて無我夢中で読んでいました。

ある時父が伊賀の影丸を読んでいる私の横を通りました。ふと立ち止まって脇へしゃがみました。当時は漫画が悪いものという風潮があって、家庭で読ませないようにという声がありましたが、父はそれにはくみせず、読みたいものは自由に読ませてくれました。

「何を読んでいるんだ」というので正義の忍者伊賀の影丸が、悪の甲賀の忍者と戦う話をすると、父はこう言いました。「その漫画では伊賀の側から見ているから伊賀が正義なのであって、甲賀の側から見たらそれは逆になる」というわけです。

冬の縁側の陽だまりで話した記憶がよみがえります。「歴史も同じで勝者の立場から描かれた歴史と、敗者の立場から描かれた歴史は違うのだ」と父は言います。そうして平家物語の話になりました。「平氏の側から見れば源氏に滅ぼされたのだから平氏が正しくて、源氏は野蛮で知性も教養もない坂東武者だという話だけれども、源氏側から見れば平氏の方が悪いのだから、見方によって歴史の様子はガラッとかわるんだ」と言うのです。

それから最後に父は「自分は戦争を体験している。鬼畜米英で神国日本と教わって戦争したが、敗戦になったら180度ガラッと変わって、アメリカやイギリスは正しくて、日本が間違っていることになった」と。だから「物事と言うのは片方から見ただけでは絶対に分からないんだ。両面から見て正しい判断をしないとだめだ」としつこく言われました。

父はよく「担板漢(たんぱんかん)になるな」と言っていました。担板漢とは板を担ぐ男のことです。大きな板を担いでいると反対側が見えなくなります。だから片方からしか物が見えない物の道理が分からない人という意味です。今の世の中に大事なことだという気がします。画一的な物の見方が主流になってしまっているのではないでしょうか。

父がある晩年の講演でこのように話していました。「教養というものは、どれだけ相手の立場に立てるかということなんです」と。教養の定義は色々あるけれども、相手の立場からものを考えることができるということが、自分の思う教養であると力説しているテープが残っています。父の考えはずっと一貫していました。

鼠(2009/9/15)

文中で使用している相田みつをの作品画像は、相田みつを美術館の許可を得て使用しています。(c)Copyright All rights reserve

後編へ続く
相田一人 氏 プロフィール

生年月日

昭和30年9月2日

 

詩人・書家であった相田みつをの長男で、現在は相田みつを美術館の館長を務める。

 

相田みつを美術館
東京都千代田区丸の内3-5-1 東京国際フォーラム 地下1階
24時間テレフォンガイド 03(6212)3202

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